【最後に動画あり!】

今回の【クレイジージャーニー】には

孤高のパイロット室屋義秀さんが登場。

日本ではまだ耳慣れない“エアレーサー”。

室谷さんイケメン

出典:https://middle-edge.jp

そしてアジア人としてもちろん日本人として初の

“レッドブル・エアレース・パイロット”に抜擢された室屋義秀さん。

そんな彼の挫折と栄光などを調べてみましたよ♪

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室屋義秀さんのプロフィール

イケメン2

 

 

出典:https://goin.jp

生年月日 1973年1月27日

出身地 奈良県(現在は福島県に在住)

身長 173cm

体重 70kg

ご結婚されており、お嬢様が2人おられるようです。

 

幼少時は木登りをしてそこから飛び降りたり、自転車に羽根を付けてみたりと、

“飛ぶ事”に対してとても関心があったようです。

そんな頃、テレビアニメ「機動戦士ガンダム」を見ていて、パイロットの

アムロ・レイに憧れます。

また、この時期に旅客機のコクピットの見学が出来る機会があり、そのコクピットと

ガンダムのコクピットを重ね合わせ、パイロットへの憧れが強くなったそうです。

 

そんな室屋義秀さんでしたが、中学生のときはサッカーをしていたのだそう。

サッカーの練習をしていたある日、空に飛行機雲で『POCALI SWEAT』という

文字を目にします。

 

それをきっかけに、再びパイロットになりたいという気持ちがつよくなりました。

18歳になると本格的に飛行訓練を始めます。

まずは、グライダーから始めました。

 

後に、宮崎駿監督の『紅の豚』に強く影響され、20歳の時、飛行機操縦免許を取

得する為に単身でアメリカに渡ります。

ライセンスを取得し、日本に戻ると、バイトをして資金を貯め、1年に2ヶ月はア

メリカに渡り訓練を続け、日本ではグライダーで飛行訓練に励み、オーストラリア

では長距離飛行の技術を学びます。

この頃、国内の競技大会で好成績をおさめます。

 

スタートはたった一人、窮地に追い込まれる

飛行士として歩み出した頃、資金も実績もない室屋義秀さんは、スポンサー探しも

容易ではありませんでした。

そんな状態だったので、もちろん機体の購入は全額借入で。

やがて、資金が枯渇してしまい、機体の燃料も購入出来ず、練習もままならなくな

ってしまします。

 

国内のエアショーに出場したくても、何も実績のない室屋義秀さんにもちろんオ

ファーはありませんでした。

そんな状態なので、自ら出場したくても出場できない。

でも、この状況から何とかして脱しなればならない。

 

この状況を打開しようと考えついたのが

“無償でエアショーを開催する”事でした。

何とか燃料代を確保し、2002年に“フォーミュラカー”の会場で曲芸を披露しま

した。

そこから実績作りを始めた事により、序々にエアショーのオファーが舞い込むよう

になります。

このまま順調に進んで行くと思った時、周りからの批判と、挫折が待っていました。

 

批判と挫折

“フォーミュラカー”で曲芸を披露したのが2002年、それから僅か1年後の

2003年に米国フロリダで行われた“世界曲技飛行選手権”に参戦します。

周囲からは、無謀との批判を受けます。

なぜなら、通常はローカルの大会で経験を積み、大きな大会へと挑戦するのが

曲技選手のプロセスなのだそう。

 

それを踏まえず、いきなり大きく有名な大会へ出場するという事で批判が集まり

ました。

しかし、これにも2002年に無償でエアショーを行った時と同じで室屋義秀さ

んには考えがありました。

 

それは曲技機に乗り続ける為にはスポンサーの確保が必要だったからです。

その為には、大きな大会に出て、良い成績を収めなければなりません。

それを考え、無謀と周りから批判されてでも、大会に出場しようと決意したので

す。

 

そして、室屋義秀さんは出場しました。ですが結果は惨敗。

世界のレベルの高さを身をもって痛感させられます。

 

技術的には世界レベルでも、どうしても表彰台に登れない自分・・・

そんな日々が長く続き、一時はこの世界から身を退く事も考えたそうです。

このまま自分は辞めてしまうべきか・・・

そう悩んでいた時

一筋の光が!!

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