“栗林幸吉(ウイスキー/目白 田中屋)クレイジー・ジャーニー出演!年齢やプロフィール(経歴/結婚)、店舗の場所や営業時間や評判は?”
ここ数年話題になっている“ウイスキー”。『クレイジージャーニー』では、ウイスキーを巡り、世界中を駆け回る方が出演。
今回はその方をご紹介です。
その方は
『目白 田中屋』店長の栗林幸吉(くりばやしこうきち)さん。
ウイスキーにとても詳しく、書籍も出されているという事。
どんな方なのか、とても気になりますね!
みなさんこんにちは☆
yo-mu-inkoです。
では早速、栗林幸吉さんに迫ります!
『目黒 田中屋』店長 栗林幸吉さんの年齢は?
出典:http://www.drinkplanet.jp
栗林幸吉さんのお名前は“くりばやしこうきち”とお読みするんですね。
栗林幸吉さんの事についてですが、ほとんどありませんでした。
ウイスキーに関する書籍も数多く出されているのですが、これだけ情報の無い方も不思議ではないでしょうか。
そんな中、某インタビューの中から、年齢に関するヒントがありました。
それによりと、大学生時代にウイスキーに関わるきっかけがあり、その頃に友人とウイスキーを輸入販売していました。
その事について栗林幸吉さんが話されている内容で、1987年頃が24歳くらいという事がわかりました。
という事で
栗林幸吉さんの年齢は56歳位(2019年現在)。のようですね。
※後にオンエアから54歳である事がわかりました。
それから結婚に関して調べてみましたが、情報はありませんでした。
また、性格は見栄っ張りで、人に何か頼まれたり、何か言われたりすると、“ちゃんと真面目にしなきゃ”と思う性格ということです。
栗林幸吉さんの経歴
栗林幸吉さんの詳しい経歴についても、ほとんど無い状態でしたが、わかる範囲でご紹介致します。
栗林幸吉さん大学生の頃に『ゼクト』というBreでアルバイト。
そこで知り合ったアルバイト仲間の組嶽さんと、ウイスキーとミネラルウォーターを販売する会社を1987年に立ち上げます。
友人の組嶽さんですが、実家がお酒屋さん。
島根県で100年以上続くという老舗の息子さんでした。
2人が会社を立ち上げた1987年頃はちょっとしたウイスキーブーム。
ウイスキーとそのウイスキーを割る為のミネラルウォーターが売れると友人の組嶽さんが予想。
お酒に関しては全くわからない栗林幸吉さんでしたので、ウイスキーに関しては組嶽さんに任せ、自身はミネラルウォーターを仕入れる為に、イギリスまで足を運んで買い付けに行きます。
そして、販売を始めますが、ウイスキーを試飲してもらうも「マズイ!!」と言われる始末。
更に、時代は水をお金を出してまで買う事が普通では無かった時代。商品は売れず、在庫が貯まる一方でした。
そんな訳で、2人は会社を1994年に辞めてしまうこととなります。
栗林幸福さんと友人で立ち上げた会社とは?
栗林幸吉さんが友人の組嶽さんと会社を立ち上げた当時はどのような運営をされていたのでしょうか?
栗林幸福さんは友人の組嶽さんと2人で会社を立ち上げるため、100万円ずつ出しあって、一緒にマンションに暮らし、会社を始めます。
当時の2人は会社の運営の為に、バイト漬けだったとか。
栗林幸吉さんは海外から買い付けたミネラルウォーターを買い付けていたのですが、その量が多く、1コンテナ分、800〜900ケースも。
凄い量ですが、当初の予定では、3ヶ月に一度、1コンテナ分を輸入する予定でした。
そうなると、1ヶ月に200ケースの販売という事ですが、予定では販売可能と睨んでいたのでしょうね。
ですが実際、これを完売するのに1年半程もかかってしまいました。
ウイスキーは有楽町西武さんの『酒蔵』や『信濃屋』、現在、栗林幸吉さんが務める『田中屋』が商品を多く仕入れてくれていたそうです。
とは言っても、いくら大手の会社でも在庫が直に無くなるという事は無く、在庫が増えて行き、最終的には、商品の“叩き売り”状態でした。
そして遂に1994年に辞めてしまいます。
栗林幸吉さんはその年に『田中屋』へ入社します。
この当時の事を栗林幸吉さんは、
“あのまま続けていたら、成功していただろうけれど、後1年続けていたら借金だらけになっていただろうから、辞めて正解だった”
と語っておられます。
また組嶽さんにウイスキーを販売する仕事を誘われる前は、
“何もやる事も無かったし、やりたい事もなく、ただ漠然とお金持ちになれたらいいな”
としか思っていなかったそうで、組嶽さんとの出会いは確実に栗林幸吉さんの人生を変えました。
友人の組嶽さんについての情報がありませんでしたが、実家のお酒屋さんを継がれているのでしょうか?
情報がなく、ちょっと気になりますね。
栗林幸吉さんのお店『目白 田中屋』の場所や営業時間は?
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