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室屋義秀さんは“エアレーサー”。
そしてアジア人としてもちろん日本人として初の“レッドブル・エアレース・パイロット”に抜擢された方です。
今回は、室屋義秀さんの年齢やWIKIプロフィール、経歴は勿論、エアレーサーの訓練についてもご紹介致しましょう。
室屋義秀の年齢やWIKIプロフィール
室屋義秀さんの年齢やWIKIプロフィールのご紹介です。
室屋義秀さんはこんな人
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・名前 室屋義秀
・生年月日 1973年1月27日
・出身地 奈良県(現在は福島県に在住)
・身長 173cm
・体重 70kg
室屋義秀さんの年齢は47歳(2020年現在)
室屋義秀さんは結婚し、2人娘がいます。
幼少時はの室屋義秀さんは、木登りをしてそこから飛び降りたり、自転車に羽根を付けてみたりと、“飛ぶ事”に対してとても関心がありました。
そんな頃、テレビアニメ「機動戦士ガンダム」を見ていて、パイロットのアムロ・レイに憧れたとか。
この時期に旅客機のコクピットの見学が出来る機会が。
その時、コクピットとガンダムのコクピットを重ね合わせ、パイロットへの憧れが強くなったと言います。
そんな室屋義秀さんでしたが、中学生のときはサッカーを。
再びパイロットを目指すキッツかけはなんだったのでしょうか?
室屋義秀の経歴
室屋義秀さんがパイロットを目指すきっかけや主な経歴についてご紹介です。
室屋義秀がパイロットを目指したきっかけ
それは高校生の頃。
ある日、サッカーの練習をしていると空を見上げると飛行機雲で
『POCALI SWEAT』
という文字を目にします。
そのことがきっかけで、再びパイロットになりたいという気持ちが強くなり、再びパイロットを目指すことに。
室屋義秀の経歴
室屋義秀さんは18歳になると本格的に飛行訓練を始めました。
まずは、グライダーから。
20歳の頃には、宮崎駿監督の『紅の豚』に強く影響され、飛行機操縦免許を取得する為に単身でアメリカに渡り、ライセンスを取得。
日本に帰国するとバイトをして資金を貯め、1年に2ヶ月はアメリカに渡り訓練を続け、日本ではグライダーで飛行訓練に励み、オーストラリアでは長距離飛行の技術を学びます。
この頃、国内の競技大会で好成績をおさめます。
飛行士として歩み出した頃、資金も実績もない室屋義秀さんは、スポンサー探しも容易ではありませんでした。
その為に機体の購入は全額借入で購入。
やがて、資金が枯渇してしまい、機体の燃料も購入出来ず、練習もままならなくなってしまします。
国内のエアショーに出場したくても、何も実績のない室屋義秀さんにもちろんオファーはありませんでした。
そんな状態なので、自ら出場したくても出場できない。
でも、この状況から何とかして脱しなればならない。
この状況を打開しようと考えついたのが
“無償でエアショーを開催する”事でした。
何とか燃料代を確保し、2002年に“フォーミュラカー”の会場で曲芸を披露しました。
そこから実績作りを始めた事により、序々にエアショーのオファーが舞い込むようになります。
このまま順調に進んで行くと思った時、周りからの批判と、挫折が待っていました。
“フォーミュラカー”で曲芸を披露したのが2002年、それから僅か1年後の2003年に米国フロリダで行われた“世界曲技飛行選手権”に参戦します。
周囲からは、無謀との批判を受けます。
なぜなら、通常はローカルの大会で経験を積み、大きな大会へと挑戦するのが曲技選手のプロセスなのだそう。
それを踏まえず、いきなり大きく有名な大会へ出場するという事で批判が集まりました。
しかし、これにも2002年に無償でエアショーを行った時と同じで室屋義秀さんには考えがありました。
それは曲技機に乗り続ける為にはスポンサーの確保が必要だったからです。
その為には、大きな大会に出て、良い成績を収めなければなりません。
それを考え、無謀と周りから批判されてでも、大会に出場しようと決意したのです。
そして、室屋義秀さんは出場しました。ですが結果は惨敗。
世界のレベルの高さを身をもって痛感させられます。
技術的には世界レベルでも、どうしても表彰台に登れない自分・・・
そんな日々が長く続き、一時はこの世界から身を退く事も考えたそうです。
このまま自分は辞めてしまうべきか・・・
そう悩んでいた時
一筋の光が!!
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